小説家が小説を書くのは、読者のためではなく、自分のためである。

稀勢の里が逆転優勝したニュースをみて、朝っぱらから目頭を熱くしていたものの、ぼくは普段相撲をみません。はい、完全にただのミーハーです。野球選手にしても、ダルビッシュとマー君と大谷くらいしか、顔と名前が一致しません。サッカーも、カズと本田と香川くらいしかわかりません。

いや、香川に関していえば、ぼくが尊敬している保坂和志さんという小説家の人に顔がそっくりなので、それだけでちょっとリスペクトしている感じもあります。

というのも、「芥川賞をもらってやる」発言で一時話題になった田中慎弥さんが、自分に顔が似ているからという理由で、秋葉原殺傷事件の加藤智大被告についての小説を書いているらしく、それについてのインタビューか何かで「顔が似ているというのは侮れない」と発言していたのを読んで、つまりぼくも「顔」だけで香川をリスペクトしているのかもしれないと、ちょっとそう思っているだけです。

無名作家にとって有名作家は僻みの対象でしかない

まあそれはそうと、ぼくが稀勢の里の逆転優勝した取り組みをユーチューブの動画でだけみて満足してしまうように、小説といえば、「村上春樹」くらいしか思い浮かばないという人も世の中にはたくさんいるでしょう。「保坂和志」といっても、たぶんほとんどの人はわからないと思います。

だからといって、村上春樹より保坂和志のほうが優れているのかは、少なくともぼくには判断のしようがありません。というのも、ぼくは村上春樹の小説を読んだことがないからです。べつに天邪鬼とかではなく、単純に触手が動かないから、これまで縁がなかっただけですが、今後自分に必要かもしれないと思えば、ふつうに読むと思います。

とはいえ、完全に色眼鏡を外して読めるか?といえば、ぶっちゃけ自信はありません。村上春樹に限らず、又吉にしても、有名人というのは、ぼくのような無名人にとって、基本的には僻みの対象でしかないからです。まあだから、やっぱり天邪鬼かもしれませんが……(苦笑)

 

小説家が小説を書くのは誰のためでもなく、自分のため?

共同出版という名の自費出版で自爆した15年ほど前とほぼ同じころに、史上最年少の芥川賞作家が話題になりました。そのときからぼくの妄想は、芥川賞の授賞式にのぞむ自分ではなく、フランツ・カフカ賞(チェコ主催の世界的文学賞)経由の、ノーベル賞作家として、いわば逆輸入の天才芸術家として、日本での凱旋インタビューに静々と応じる自分……というのに大きく飛躍しました。

そう、ぼくの心身は、極めて私欲にまみれていました。ちなみに、そのインタビューのときに着る服は、ニールバレットという超高級ブランドのものと、決めておりました。↓↓↓

といっても、ここ数年は、そんなウンコな妄想はほとんどしていません(笑)というのも、小説のことだけに関していえば、自分が満足すればそれでいいと思うようになったからです。

はい、今のぼくは誰のためでもなく、完全に自分のためだけに小説を書いています。もっといえば、べつに誰かに読ませる必要もないんじゃないか?とさえ思っています。なぜなら、小説や芸術というのは、それぞれが一つの作品というより、自らの進化(成長)を促すための道具でしかないのかもしれないと、最近はとくにそう思うからです。

 

心(精神)ではなく、肉体の反応を書く

だからぼくは、今現在自分が書いている小説が人にどう評価されるかを、まったく恐れていません。それは、誰にどう言われようが、構わないということではありません。誤字脱字とか、もう少しこういう言い回しのほうがわかりやすいだろうとか、もちろんそういう細かい修正点はあるでしょうけど、ぼく自身の肉体の反応がその通りそのまま書けてさえいえば、それ以上を望むことはそもそもできないということです。

肉体は心(精神)より正直です。だから、心(精神)ではなく、肉体の反応こそを書くべきだと、ぼくはそう思っています。肉体の反応にはストーリーもまとまりもありません。肉体はメチャクチャです。どうにも始末に負えないのが肉体です。しかし、だからこそ書くに足るものなのです。

 

自分のために小説を書いているのに、なぜ人に読ませようとするのか?

――まあそれはそうと、読ませる必要がないかもしれない小説を、じゃあ何で読ませようとしているのか?といえば、あわよくばそれを気に入ってくれる人が現れるかもしれないという下心も確かにあります。でもそれ以前に、ぼく自身が肉体の運動を言語化することを通して、自分でも何だかよくわからないところへ旅をしているような感覚があって、その楽しみというか、ゾクゾクするような感じを、少しでも多くの人に分けてあげたいという気持ちがあるからです。

もちろん、ぼく自身が何かの不具合(頭がおかしくなったとか)で、そういう錯覚に自分勝手に陥っているだけかもしれません……(苦笑)だとしたら、どう頑張っても皆さんには楽しんで頂くことはできないでしょう。しかしそのことは、皆さんのせいではなく、ぼく自身が自分の肉体の反応にまだ正直になり切れていないということです。

 

「なんかわからんけど読んでいられる小説」を目指す

ぼくは一般の方々、とくに普段小説を読まない人たちの感性というものを信じています。なぜなら、小説を読み慣れている人たちのように、「小説とはこういうものだ」的な感じで読もうとはしないだろうからです。つまりぼくは、自分のためだけに小説を書こうとする傍ら、大衆化も望んでいるという、両方の願望をもっているわけです。

しかし、いわゆる大衆化のために、皆さんに寄り添う(わかりやすく書くとか)ことは、ぼくは一切しません。小説に関しては、ぼくは「自分のためだけ」を優先します。「自分のためだけ」を完全に突き詰めた先にある、本当の意味での皆さんとの寄り添いをぼくは求めています。

ちなみにその境地を、禅の言葉で「自他合一(じたごういつ)」と呼ぶらしいです。自己を徹底して突き詰めると、他者と交わる(合わさる)――つまり、真の自分は他者(あなた)でもあるという意味です。

ていうか、なんだか小難しくなってきましたね……まあ、こんなことはぶっちゃけどうでもいいんです。要は、「ストーリーもないし無茶苦茶だけど、でもなんか読んでいられる……」と、皆さんにそう思ってもらえるような小説を書きたいというだけの話なのです。

はい、たったこれだけの結論のために、長々とお読みいただきありがとうございました。。。

 

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