時間をかけてしっかり書くのは、小説ではなく、ブログのほう!?

性や暴力表現はどこまで許されるのか?

アダム徳永氏の著作「スローセックスレポート」という本の書評を書いたという人が、アドセンスに広告停止を食らった――という記事を読みました。規約違反の内容は「アダルト」とのことですが、ご本人曰く、極めてマジメに書いた書評だったそうです。

で、もしかしたら、ぼくのこの記事→「純潔・貞操観念が美徳とされる理由を考えてみる」も、「アダルト」として、アドセンス様から警告か停止を受けるんじゃないかと、ちょっとビビっています……(苦笑)

とくに気になるのが、アドセンス様が禁止している「露骨な性描写、過激な表現」の中の、「露骨な性的ジョーク」という項目です。

判断に迷う場合は、「そのコンテンツを子どもに見せても問題がないかどうか、職場の同僚の前で閲覧しても恥ずかしくないかといった基準を目安にしてください」とありますが、そうすると、問答無用で削除しなければならない気がします……(苦笑)

まあでも、実際に警告を受けたわけじゃないので、もう少し考えてから対処しようと思いますが……それとは別に、カニバリズムや、性暴力的な無名画家のことをちょっとだけ紹介した文章は、その部分だけ一応削除しました。

 

性や暴力描写を楽しむのは、20代で卒業しよう

それにしても、ぼくのように、芸術力(個性のこと)を売りにブログを書いている人間としては、いつどこで地雷を踏んでしまうかわからんな~と、先々がちょっと不安になりました。

ということで、「表現の自由」について、このままちょっと書いてみようかと思ったのですが……よくよく考えてみれば、アドセンス様が禁止にしている項目に触れるかもしれない内容を、ぼくはことさら主張したいわけでもありません。というより、性描写や暴力的な表現というのは、比較的楽に読者の目を引くことができるので、とくに小説においては、できれば書きたくないとさえぼくは思っています。

確かに、性や暴力というのは、その人間の本質や深淵を探るには、むしろ欠かせないものかもしれません。そういうものから目をそらしては、本当の表現はできないという意見もあるでしょう。というか、小説や芸術は、そういう禁断の領域へ果敢に挑むのが美徳とされている節が未だにあります。しかし、その思考はもう古いというか、20代までで卒業したいところです。

そもそも、性や暴力を切り口とするのは、芸術をはじめ、それ未満のあらゆる表現の場で、もうさんざんやり尽くされています。今さらそれを切り口に掘り下げていったところで、新しい境地といわないまでも、なにか新鮮なものを得られるとは、ぼくには思えません。

もっといえば、理想的な表現というのは、性や暴力を切り口に、人に不快な感情を抱かせてはいけないだけでなく、それとは逆の、喜びや感動とか、心地よい感情さえも抱かせないものであるはずです。じゃあその理想的な表現は、人間の一体どこに焦点を当てるべきかといえば、心や感情ではなく、それ未満の「無意識」です。

無意識というのは、心や感情よりも複雑で無限なはずなのに、まだほとんど開拓されていません。少なくともこれからの芸術は、この無意識に切り込んで行くか、切り込んで行こうとする意思があるものでないと、なんの価値もないようにぼくは思います。

 

ブログは頭で書く、小説は体で書く

といっても、ブログの文章をそこまで突き詰めていくことは、現実的に無理があるのは確かです。ブログというのは、何かを知りたいとか、楽しみたいとか、人間の意識が集約しやすいように、ある程度、論理的に書かなければならないものだからです。その意味で、ブログは、小説より手間がかかります。

実際、このブログを書きはじめてつくづく思うのですが、ぼくはたぶん、小説より、ブログのほうを、丁寧に時間をかけて書いています。ブログはちゃんと考えて書いているけど、小説のほうはあまり考えていないということです。

考えるというのは、言葉や文章を、論理的に組み立てる作業のことです。逆に、小説のほうは、そうしていないということですが、そうしてしまうと、無意識に切り込んで行けなくなるからです。

もっと簡単にいえば、ブログは頭で書いているけど、小説は体で書いているということです。って、これと同じようなことを、どっかの記事で書いていたような気がします……(苦笑)

あ、コレですかね→大衆化に反して大衆化を目指す~自他合一の真理

まあとにかく、ある意味、ブログのほうはしっかり考えて書いているけど、小説のほうは、むしろ適当に書いているとも、ぼくの場合はいえるわけです(苦笑)

 

0
 
スポンサーリンク