「やればできる!」→いや、無理でしょ。

「やればできる!」は嘘

先日、エベレスト登頂とか北極点に到達したとか、とにかくその道ですごいことを果たしたという20歳の女性がテレビに出ていて、自分の好きなことを「やりたい!叶えたい!」という気持ちをトコトン突き詰めれば、誰にだってできる――みたいなことを言っていたのですが、「そうじゃないんだよな~」なんてことを、捻くれもののぼくは、つい思ってしまいました……(苦笑)

たとえば、ぼくと同じような小説を書きたい――という人が仮にいたとします。ええ、あくまで「仮の話」として進めさせてください(笑)

でもぼくは、そういってくれた人に、「とにかく書き続けろ!」「芸術と真摯に向き合えば必ず書けるようになる!」とか、そういう無責任なことを迂闊にはいえません。

なぜならこの言葉というのは、「就職せず、風呂なしアパートに籠って、金がかかる人付き合いを一切断ち、そうまでしても誰からも認められず、社会のクズと呼ばれても、延々しつこく書き続けることを、しかも何も信じられない状態で、少なくとも20年間続けてください」と、同義語だからです。

はっきりいって、こんなことをできるのは、日本中さがしても、ぼく以外にいるとは、ぼく自身には思えません。もちろん、芸術的才能や能力はべつです。ぼくの半分どころか10分1の努力でも、今のぼく以上までいける人なんか、ちょっと探せばゴロゴロいるかもしれません。

そうではなく、ぼくが問題にしたいのは、一つのものへの執念です。自分でいうのもなんですが、執念の力だけでいえば、ぼくは生まれながら尋常じゃないのです。

 

「死ぬ気になれば何でもできる!」も嘘

「死ぬ気になれば何でもできる」のは、当然です。しかし、「死ぬ気になる」ことが難しいのです。本当に死にそうになったとしても、「死ぬ気になれる」とは限りません。

執念、努力、信念――総じてこういうものをもっている人というのは、遺伝子がそうだというだけな気がします。だから、そうでない遺伝子の人に、ああしろこうしろとか言ったところで、意味はないだろうし、そうでない遺伝子の人にしても、はじめからそうでないなりに生きたほうが良いような気がします。

というより、執念ほどなくても、ある一定以上の努力と信念までに、むしろ留まっている人のほうが、社会で成功する率は高いように思います。

執念なんて、もはやキチガイの領域です。なにも良いことはありません。今のぼくの有様をみてもらえば、それは容易にお分かり頂けると思います(苦笑)

たとえばぼくは、ここまで好き勝手わけのわからない小説を書けるようになった自分を、心から誇りに思っていて、そのおかげで、今のぼくの社会的な不幸を、ぼく自身はぜんぶ笑い飛ばすことができています。

だからといって、誰にも認められていないこんなウンコ小説に、ぼくがそこまで価値をおいている理由は、おそらくどなたにもお分かり頂けないと思います。なぜなら、ここに至るまでの苦労は、ぼく自身にしかわからないからです。もしくは、ぼくが芸術というものを、圧倒的に勘違いしているかもしれないからです(笑)

 

「無理なものは無理!」が正解

ともあれ、最初の話にもどりますが、エベレスト登頂とか北極点に到達とか、そういうこともまた「執念」の内にはいるだろうから、ぼくの小説と同じく、普通の人にできることとは到底思えません。

というと、普通の人を見下しているように聞こえるかもしれませんが……ぼくも人の子なので、こんな歳にもなって、親を悲しませるようなことはしたくありません。要は、ちゃんと働いて、家族を養って、親の面倒までみている普通の人を、とても羨ましく思うことがあります。

なにより辛いのは、ぼくがこんなせいで、妻に子供を諦めさせてしまったことです。だったらそのぶん、いい服でも旅行でも、何か少しでも人より贅沢をさせてあげたいと思っても、それさえも叶えてやれません。妻はぼくの執念の一番の犠牲者なのです。

まあ要は、執念を持つものと持たざるものが、お互いにないものねだりをしてもしょうがないってことだと思います……(苦笑)

 

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