映画「楢山節考」と高齢化社会―「死」と「老い」を考える

ふ~~、たった今、往復6キロをチャリでぶっ飛ばして、実家の母から、食料と現金1,500円を徴収してきました……(苦笑)はい、これで今日の夕食&ぼくのタバコ代も合わせて、なんとかなります♪

ええ、母は偉大です。いや、最初は出し渋って1,000円しか渡してこなかったので、「病み上がりの中年男子が、わざわざチャリですっ飛ばしてきたんだよ?もう少し奮発してもいいんじゃない、お母さん??」と、訳のわからんことをほざきつつ、とにかくポケットの小銭をぜんぶ出すよう母にいって、その中から銀玉だけをかき集めて、プラス500円になったというわけです……(苦笑)

つーか、こんな40歳には絶対ならないでね……♪

それはそうと、なぜ今日のこんな時間になって、突然ぼくが実家に行ったかというと、父が急遽外出したからです。ええ、実は、ぼくと父(重三郎)は、超犬猿の仲なので、お互い顔を合わせることができないのです。なぜそのような確執があるかについては、話すと長くなるので端折りますが、要は、お互い似た者同士(重三郎もロクに働かない)だから、ウマが合わないのです。

そう、ぼくと一緒で、重三郎もロクに働かない男なので、実家のローンもまだけっこう残っていて、東京に住む弟と妹が仕送りをしつつ、なんとか持ち堪えている状態だったのですが……いつまでもそうはできないということで、妻をつれてぼくが地元に帰ってきたのです。

しかし、父とはやっぱり一緒に住むことができず、いわば実家近くのアパートで、「父のもしもの時」を、じっと待っている状態なのです……(苦笑)

実際、父の体はけっこう限界にきていて、とくに腎臓が深刻なのですが、一度それで入院して以来、すっかり病院嫌いになってしまい、今ではどこがどの程度悪いのか、まったくわからない状態なのです。

父にもしものことがあれば、住宅ローンは片付くし、ぼくと妻も実家に帰ることができます。そうすれば、弟や妹が実家に仕送りすることもなくなります。だから家族はみんな、「父のもしもの時」を密かに期待している――と、そう言い切ってしまうのは、いくら何でも実の父なので、躊躇するところはありますが、しかし、本音ではやっぱりみんなそうです。

後がつかえている――といういい方は、かなり乱暴かもしれませんが、高齢化が進む今の日本全体の現状も、まさにそんな感じでしょうか。かといって、高齢者にはやく死んでくれというわけにはもちろんいきませんが、なんとかしないと若者が犠牲になるのは確かです。ただ、自分が高齢者になったときに、潔く死ねるか?というと、たぶん誰もそうではないでしょう。本当に難しい問題です。

むかし、信州のある貧しい農村では、70歳になると、「楢山まいり」に行く慣習があったそうです。「楢山まいり」というのは、要するに、山に捨てられることです。

食料が乏しいその村では、老いても歯が揃っていることは、むしろ恥ずかしいことだったそうです。「いい歳して、まだ食うのか!」「まだ生きるつもりなのか!」みたいな感じです。だから、自分の歯を石で砕くお年寄りの方も多かったそうです。

それを題材にした「楢山節考」という映画で、山に捨てるために母を背負った息子が、思わずむせび泣くシーンがあります。ぼくはそれを、自分と母にたとえて、絶対そんなことできねー!と、なんど思ったかわかりません。じゃあ、重三郎にならそうできるか?というと、やっぱりできません。親を殺してでしか生きられないのなら、自分も一緒に死のうと思ってしまいます。

映画の中の母は、一人になってから、たくさんのカラスが上空に飛んでくるのを見ます。その場所で、これまで多くの人間が捨てられてきたことを知っているカラスが、腹を空かせて自分の死を待っているのです。

……まあ、興味というか、死や老いについてちょっと考えてみたいという方は、ぜひ一度ご覧ください。

 

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