「書けない」に耐えることでしか、書けるようにはなれない。

これで、71記事目です。あと29記事書いて100記事になったら、とりあえず毎日更新はやめて、小説のほうにも労力を割きたいと思っています。

というか、いくら頑張って更新しても、最初の2,3カ月はグーグル様の検索に拾ってもらうことはできないようなので、もうここらで、新しい記事を更新するのは2,3日に1回くらいのペースまで落として、過去記事の整理に集中したほうがいいような気もします。

過去に自分が書いた小説に愛着をもつ=成長していない

まあでも、小説にしてもそうなのですが、ぼくは常に新しい文章を書き進めていきたい性質なので、前に書いたものを見直したり編集するのが、苦手なのです。超極端にいえば、昨日書いたものなんて、今日にはもうどうでも良くなっているのです……(苦笑)

それだけ毎日進化している(もしくは進化を欲している)と、良くとればそうもいえますが、小説にしてもブログにしても、やはり最低限の見直しやチェックはするべきだろうとは思います。

しかし世の中には、10年前に書いたものを、愛着の想いで語る人が稀にいます。一般の人ならそれでもいいでしょうが、小説家や物書きを生業としている人の中にもそういう人がいるのは、ちょっと驚きです。なぜならそれは、10年前からほとんど成長していないのと一緒だからです。

 

トンネル(スランプ)であがいても、状況は変わらない

長年、小説を書いていると、本当にこれでいいんだろうか?と悩むことが、当然ですが、たびたびあります。一度そういうトンネルに入ってしまうと、そこから抜け出すのに、相当の時間と労力を要します。

で、トンネルを抜けたつもりになって、あるいはトンネルの側面とかに無理やり穴を開けよう!みたいな感じで、何か新しい表現を強引につくろうとするのですが、所詮それは、トンネル内での悪あがきの域を超えることはできません。つまり、トンネルの中にいるうちは、ほんのちょっとでも満足できるような作品は、ほぼ絶対にできない、と言っていいでしょう。

だから表現者(芸術家)は焦ります。焦ってさらに下手にもがいて、とにかく何でもいいから書いてしまって、「形」を作ろうとしてしまいます。で、その形が、実はよくないものだとしても、とりあえずなんとなくそれに満足して、というか、それが正しいと思い込んで、そのまま先に進んでしまうことがあります。

それは、考えを熟成させないまま(トンネルを抜け出さないまま)楽な道を選んでしまう、ということです。もしくは、トンネルを逆に戻って抜けて、要は、すでに自分が安全につくれるレベルの作品を、繰り返しつくることに終始します。

 

トンネルを抜けるまでは、ひたすら沈黙を貫く

たとえば、一人の有名な小説家がいたとして、その人がスランプに陥ってしまってから、また書きはじめるまでの思考の過程というのは、そういう感じなんじゃないか?と、ぼくは勝手に想像しています。

なまじ有名になってしまうと、表現者として勝負ができなくなる、ということです。小説を読む読者のもとへ、とにかく一刻もはやく新作を……とか、作り手が急いでしまったら、元も子もないと思います。そんなにはやく作り手の考えは成熟しないからです。

だから、小説でいえば、書けないことに耐えられないとダメだと思います。もうアイツは終わったとか、過去の人だとか、そもそも小説家にもなれてねえじゃん!とか言われても、自分の中の考えが成熟するまで(トンネルを抜けるまで)は、ひたすら沈黙です。その沈黙に耐えることが、最低限の質の小説を書くために、絶対的に必要なことだとぼくは思います。

 

人や誰かのために小説を書くのはNG

小説家が小説を書くのは誰のためでもなく、自分のため?」の記事でも書かせて頂きましたが、人や誰かのために小説を書こうとか思っているうちは、大したものは書けないとぼくが思うのは、そういう理由からです。「人や誰かのために」ということは、人や誰かを気遣う余裕があるということです。余裕があるということは、全力じゃないってことです。

もっといえば、本当の意味で人のためになるような小説を書けるようになるまでには、よほどの天才じゃない限り、一生かかるような気がします。死ぬ間際にようやく書き終えた一冊のうちの、さらに数行だけが、本当の意味で人のためになる文章になるかもしれないということです。

つまり、それまでは、所詮なにをどう書いたところで、ただの文章修行の域を超えることはたぶんできないだろうから、相撲でいえば「公開稽古」みたいな状態だろうとぼくは思っていて、だから最近はあまり頑張らないようにしているというか、今まで通りただ地道に書いていればそれで良いかな?と思っています……(苦笑)

 

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