「人は何のために生きるのか?」を問うのが、そもそも間違い?

「悪」のない世界は楽園といえるのか?

「人は何のために生きるのか?」というのは、普段なかなか考えないことです。そんなことより、今日や明日を生きることのほうが大事だからです。

しかし、いずれ訪れる自分の死はもとより、身近な人の死に接すると、その問いが頭から離れなくなります。考えないようにするのは、まず無理でしょう。とはいえ、いくら考えたところで、答えは出ないような気がします。

20代の頃のぼくは、世の中を少しでも良くするために、人間は生きているのだ――というふうに思っていました。そして、芸術とはまさにそのためにあるのだ――というふうに考えていました。しかし今は、そうじゃない気がしています。

そもそも、世の中を良くするということは、「善」を行うということですが、「善とは何か?」が、よくわからなくなったからです。

人を殺したり、戦争をすることは、確かに良くないことでしょう。しかし、人殺しがない、戦争がない世界が仮に実現できたとして、それは本当に楽園といえるのか?というと、なんとなくそんな気がしません。人殺しや戦争を肯定しているわけではもちろんありません。世界としてのリアリティがないということです。

 

そもそも、世界を変える必要はあるのか?

そもそも、「善悪」というのは、人間が勝手に決めているもので、神や宇宙の概念には、善も悪もないような気がします。だとしたら、善と悪を区分して、ことさら善を推し進めたところで、意味はないかもしれません。つまり、世界を変える必要も特にないかもしれないということです。もっといえば、世界を変えようと思って、実際に変えようと行動することも含めて、変える必要はないような気がします。

仮に、人間が理想とする社会が実現しても、人間はおそらく満足しないでしょう。人間の理想には底がないからとかではなく、理想を実現することが、人間本来の目的ではないと思うからです。

 

心や感情も含めて、人間はただの物質に過ぎない?

最近ぼくは、人間というのは、心や感情も含めて、ただの物質に過ぎないんじゃないか?というふうに思うことがあります。つまり人間は、実は何も求めてもいないかもしれないということです。というか、何も求めないことこそが、人間の在るべき姿というか、人間にとって、もっとも理想的な状態のような気がします。

何も求めなくなれば、何も不幸に感じることはありません。そのかわり、何も幸福に感じることもなくなるでしょう。

不幸はいいとして、何も幸福に感じなくなることは、人間にとって確かにツマラナイことかもしれません。いや、幸福と不幸を、まったく同じように解釈することができれば、少なくとも、悩みや苦しみからは、完全に解放されるような気がします。

 

すべての命は、「気まぐれ」という意味において平等?

しかし、「何も求めない」という状態まで自分を作りあげるのは、とても難しいことです。死や病気に関してはとくにそうです。肉体的な苦しみももちろんですが、自分や愛する人がこの世にいなくても、世界が正常に動くだろうことを想像するのは、その人にとって耐え難いことです。

しかし、どうやっても世界の現実を変えることができない限り、自分のほうが変わるしかありません。「自分はなぜ生きているのか?」「なぜ今自分が死ななければならないのか?」を問うのではなく、それ自体をそのまま受け入れることでしか、悩みや苦しみから解放される手段はないのかもしれません。

神や宇宙にとっては、あらゆる命も出来事も、「気まぐれ」という意味において、平等らしいです。だとしたら、特別なにかを頑張る必要はないのかもしれません。そう思えば、ちょっと楽になれるような気もします……(苦笑)

 

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