小説家に読書量は関係ない、重要なのは読書の質

4,5冊くらいの本を、何度も繰り返し読む

一応小説家のぼくは、だからといって毎日たくさん本を読んでいるわけではありません。普段まったく本を読まない人よりはもちろん読んでいますが、そこそこ読書家の人の読書量には、たぶん、いや、絶対勝てません。

だからお前は無名なんだ!と言われたらそれまでですが……(苦笑)しかし、小説家にとって必要な読書量というのは、ある程度のところで頭打ちになるような気がぼくはします。

ぼくも20代の頃は、ドストエフスキーやトルストイとか、日本文学でいえば、漱石、三島、太宰などの有名どころをはじめ、とにかく何でも片っ端から読み漁っていましたが、今はそういう読み方はしません。じゃあどういう読み方をしているかというと、4,5冊くらいの本を、何度も繰り返し、何年もかけて読んでいます。

 

自分よりちょっと上か、もうちょっと上のレベルの本を読む。

その4,5冊の本というのは、ぼくにとってはとても難しい本なのです。だから、ちょうどいい感じに、脳に負荷がかかるのです。

小説家は、知識を詰め込むために本を読むわけではありません。だから、いくらたくさん本を読んでも、それらの本が結果的に脳に負荷をかけていないなら、少なくとも小説家にとっては何の意味もないのです。というか、脳に負荷がかかっていないからこそ、簡単に読みとおせるわけで、だからたくさん本を読めるのだと思います。

簡単に読みとおせるということは、読み手の能力をその本は超えていないということです。そんな本をいくらたくさん読んだところで、小説家の身にはならないと思います。

だからといって、自分が理解できるレベルより、はるかに上の本を読んだところで、それも同じく意味はないと思います。いわば、小学生が高校生の数学の問題に挑むのと一緒だからです。

そうじゃなくて、自分が理解できるよりちょっと上か、もうちょっと上くらいの本をえらんで、さらに、自分がいまどのレベルなのかを検証しながら読むほうが、小説家としての能力を向上させる上では、断然効率的だと思います。

 

語彙や文章力より、優先すべきは「文体」

語彙や文章力をつけるために、たくさん本を読む人もいるようですが、小説を書くのに必要な語彙や文章力なんて、それほど必要ないだろうとぼくは思っています。

むしろ、そういう小技的なものを覚えてしまうと、それに頼ってしまって、いつまで経っても自分なりの文体が完成しないという、最悪の事態に陥ってしまい兼ねません。「形だけの小説」しか書けなくなってしまうということです。

特殊な語彙や文章力というのは、自分なりの文体を獲得した後で、必要に応じて身につけていけばいいもので、わざわざそれだけのためにたくさん本を読むことは、小説修業の順序として、あまりにも間違っているとぼくは思います。

文体については前の記事でも触れたので、ここでは端折りますが、何よりまずは、自分の文体を獲得するほうが絶対的に先なのです。

 

一冊の本を無理に最後まで読む必要はない

ぼくは基本的に、その人にとって、一冊の本の中で読む価値のある箇所というのは限られているんじゃないか?と思っています。というのは、その人の趣味趣向による価値基準だけではなく、本の中にある価値を理解するまでには、それなりに時間がかかるということです。

だからぼくは、一冊の本を最初から最後までぜんぶ読みとおすことは、最近ではほとんどありません。もっといえば、適当にパッとひらいて、おもしろかったらそのまま読んで、つまらなくなったらとじる――という感じなので、一冊の本をちゃんとぜんぶ読んだのか?自分でもわからないのです(苦笑)

そのかわり、おもしろいとか、気になったところは、付箋をはったり、書き出したりして、なんども読みます。そのほうが、小説家としての成長を短縮できることもありますが、何より楽しいのです。

 

「基礎」というのは、表現者の個性を殺す諸刃の剣

何事もそうであるように、小説にしても、古典を読むなどの「最低限の基礎」は確かに必要かもしれません。とはいえ、どこかでその基礎から抜け出さないと、いつまで経っても自分を表現することはできません。基礎というのは、その表現者の自由や個性を殺す諸刃の剣でもあるのです。

小説は教科書ではありません。読むことにしろ、書くことにしろ、既存のやり方や決まり事なんて、そんなのはどうだっていいのです。自分の気持ちを思うままにできないのであれば、小説(芸術)の意味はなくなってしまうのです。つまらなくなったら本を閉じる、つまらないことは書かない。単純にそれで良いと思います。

 

0
 
スポンサーリンク