子供に自殺を思い留まらせるために、躾や教育のほかに親ができること

背に腹を代えても、「レッドライン」を超えることはできない?

そういえば、病院清掃のアルバイトですが、実はまだ電話をしていません。このブログが100記事になったら電話をします。いや、やっぱり5月いっぱいは電話をしないかもしれません……(苦笑)

5月いっぱいで、このブログをはじめてちょうど3ヵ月になります。それでもアクセスが急増しなかったら、いったん諦めてバイトをするということです。それまでにこの求人がなくなってしまったら、ご縁がなかったということで、違う求人を探します。いや、ここの勤務地は徒歩圏内で、かなり捨てがたいので、やっぱり来週電話をするかもしれません……(苦笑)

勤務地が徒歩圏内にあると、通うのが楽なのもそうですが、交通費もかからないので、差し当たりのお金も厳しいぼくにとっては、とても助かります。しかし、徒歩圏内というのは、自分の生活圏内ということでもあるので、スーパーやらどこかで、職場の人間とバッタリ会ってしまうこともあり得ます。ぼくはそれがとても嫌なのです。

だからといって、交通費のことを考えると、勤務地が遠すぎるのも困ります。一番いいのは、自転車で30分くらいの勤務地です。かつ、1日の労働時間が3時間以内で、週休2日以上。かつ、接客じゃない&少人数の仕事。

確かに、ちょっと選びすぎかもしれません……(苦笑)背に腹はかえられないなら、グダグダいってないでとっとと仕事しろ!とおっしゃることはよくわかります。しかし、人間というのは、生まれながらの性質や育った環境、あるいは年齢などによって、たとえ餓死しようとも超えられない「レッドライン」があるように思います。

たとえばぼくは、今でも頑張れば風呂なしアパートに住めます。しかし、トイレ共同のアパートはかなり厳しいです。さらにいえば、汲み取り式のいわゆる「ボットン便所」は、今となってはどうしても超えられない「レッドライン」です。都心での「エアコンなし」も絶対に無理です。

といっても、ボットン便所&都心での「エアコンなし」生活に耐えなければ、本当に死ぬ――となったら、できるかどうかは別として、最期の命を燃やして我慢してみようと思えるでしょう。

しかし、週5日労働&接客&大人数の職場で働かないと死ぬ――となったら、ぼくは潔く死ぬと思います。それはぼくにとって、我慢をしようと思う以前の、レッドライン中のレッドラインだからです。

 

「レッドライン」は自己判断→だから懐疑的にみられる

レッドラインを超えてしまうと、人間はもはや、物理的に立ち上がることすらできなくなってしまいます。子供や家族や愛する人のためとはいえ、それがその人にとって、紛れもないレッドラインであるなら、どんなことがあっても絶対に超えることはできないんじゃないか?とぼくは思います。

その人にとってのレッドラインは、他人から見ればまったくそうでないことも、とくにぼくの場合はしょっちゅうあります(笑)レッドラインの基準は、あくまで自己判断なので、懐疑的に見られがちです。

しかし、ぼくの場合であれば、こうして言い訳めいた感じながらも、それをはっきりと主張し、いわば抵抗(肯定?)することができます。それはぼくの性格的なことも多分に影響していると思いますが、何よりぼくが、一応曲がりなりにも「大人」であるからできることなのです。

 

子供は自分の「レッドライン」を主張できない

しかし、子供の場合は、自分のレッドラインを主張することはほとんどできません。いうまでもなく、子供というのは、無力極まりない生き物です。

仙台市の中学2年生の男の子が、イジメと思われることが原因で、26日に自殺してしまったそうです。詳しい事情はわかりませんが、要は、その子のレッドラインを現実が超えてしまったということだと思います。もしもその子にとって、「逃げる」という選択肢が、死を上回るほどの苦痛だったとしたら、「逃げろ」とさえ、なかなか言えません。

じゃあどうしてやれば良かったのか?と後悔したところで、ぼく自身や、ぼくの友人たちが同じ歳頃に抱えていた心の闇を思い返してみると、そういう子に限って、親にも先生にも相談できないのは、当然すぎることのような気がします。

つまり、時間を巻き戻したところで、その子の苦悩を知ることさえ容易にはできないんじゃないか?と、ご遺族の方には申し訳ないですが、個人的にはどうしてもそんなふうに思ってしまいます。

当時のぼくのことでいえば、学校での問題に親が介入してくることは、どんなことがあっても許せない、耐え難い屈辱でした。介入のやり方や度合いによっては、2度と学校に行けないどころか、自殺してしまったかもしれないとさえ、今でも思います。

ベストな接し方というのは、それぞれの子供によって、もちろん違ってくるとは思います。しかし、そもそも学校へ行かせるということ自体が、千尋の谷に突き落とすようなもので、結局のところ、親は「信じて待つ」しかないんじゃないか?と、個人的には思います。

 

躾や教育だけでは行き届かない領域

じゃあ親にできることは何があるのか?といえば、普段からの躾や教育はもちろんですが、それ以上に、毎日の食事に気を遣うべきかもしれないと、ぼくは思います。

本来、良質な食事というのは、健康な体をつくるためのものであって、健全な心や精神を養うものとは結び付かないようにも思いますが、そもそも、健康な肉体のもとでなければ、健全な心や精神を宿せるはずはありません。いや、もっとそれ以前の問題なのです。

少し話はそれますが、小説や芸術の世界のことでいえば、自らの心や精神を先立てて表現する、いわゆる「精神論」的な作品は、もうとっくに限界を超えています。心や精神ではなく、肉体を先立てて、無意識を表現するのが、今の芸術の主流なのです。肉体の反応には、あらゆる無意識が詰まっています。いわば肉体というのは、無意識の集合体ともいえます。

で、それに照らしていえば、躾や教育というのは、あくまで精神論であって、つまりその人の意識にしか働きかけることができません。もしくは、せいぜい意識下にしか影響を及ぼすことができません。つまり、意識や意識下の強さだけではどうしても乗り越えられない困難に直面した場合、その人は破滅するしかないということです。

しかし、強靭な無意識がもう一つ別にあれば、意識や意識下の強さを凌駕するほどの絶望や困難に直面しても、破滅を堪えることができるかもしれません。

 

良質な食事によって「無意識の強さ」を養う

精神的にレッドラインを超えてもう死ぬしかないという人が、極めて些細な何かの拍子で生きようと思い直す――というのは、わりとよく聞く話です。で、この「何かの拍子」というものの正体を、ぼくは「無意識の強さ」かもしれないと思っています。そしてこの無意識の強さというのは、自然エネルギー(主に食事)でしか養えないもののような気がします。

自殺する直前に、晴れ間が見えたとか、風が気持ちよかったとか、足元の雑草に目が留まったとか、通りすがりの猫が可愛かったとか、焼き肉のいい匂いがしたとか……たとえばそういう些細なことが、どんな精神論よりも、その人の破滅を思い留まらせてくれることは、想像以上に多いような気がします。

つまり、人知が及ばないそれらのことにしっかり反応する無意識を、毎日の食事によって養っておくに越したことはないというか……この無言の援助こそが、直接的な躾や教育以上に、子供に対して親ができる最大の奉仕かもしれないと、ぼくは思います。

「良質な食生活とは何か?」を真剣に考えてみる。

 

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