藤井四段の「すごさ」を、保坂和志の「羽生」から推測してみる

将棋を知らないのに将棋のことを書きたい理由

史上最年少の14歳でプロ棋士になった藤井聡太くんという中学生が、将棋界の英雄こと羽生善治を破り、さらに15連勝中という快挙を更新しているそうです。

といっても、ぼくは将棋のことはぜんぜんわかりません。小学生のとき、近所に住んでいた友人が将棋教室に通っていて、ソイツの「飛車」と「角」をとって、さらにそれを自分の持ち駒にしても尚負けて、「フガッ――!」と将棋盤をひっくり返してソイツを泣かせて以来、将棋とはまったく無縁の人生を送っています……(苦笑)

将棋というのは、見た目がひ弱で、如何にもオタクっぽい奴がやるもんだ――というぼくの偏見は、しかし、大変申し訳ないですが、藤井くんの風貌をみる限り、それなりに的を得ているような気がしてしまいます。

とはいえ、本人にとってはそんなことはどうでもいいだろうし、ぼくにしても、そんなことを言いたくて、この記事を書こうと思ったわけではもちろんありません。

ぼくがこのニュースに反応した一番の理由は、ぼくが尊敬する保坂和志さんという小説家が、将棋界の英雄こと羽生善治を題材に、「羽生」という芸術論的な本を書いているからです。

といっても、ぼくはこの本をまだ読んでいません……(苦笑)ええ、つまり、将棋についてはもとより、将棋と芸術についての因果関係みたいなものさえ、まったく頭に用意しないまま、こんな記事を書きはじめてしまったということですが……(笑)

 

「攻撃は最大の防御」といわれても、いまいちピンとこない。

ただ、藤井くんの何がすごいのか?というのを、「知りたい」という気持ちはすごくあります。それは、自分の小説に活かしたいというのも当然ありますが、それよりも「すごいものを知りたい」という純粋な欲求です。

藤井くんと対戦した、同じくプロ棋士の加藤一二三九段は、藤井くんの強さについて、とにかく研究熱心であることと、防御を考えない攻め尽くしの戦法であることを、テレビで語っていました。

まあ、研究熱心なことはさておき、「攻撃は最大の防御」であるということは、名立たる中国人選手を撃破して一躍時の人になった、卓球女子の平野美宇選手も、確かインタビューで話していた記憶があります。

しかし、これだけだと、いまいち「すごさ」が伝わってこないというか、わかりません。藤井くんにしろ、平野さんにしろ、もっと何か違う領域で、いわば特殊な注意を払っているような気がします。とはいえ、将棋のことも卓球のこともわからないぼくには、それが何かを推測することさえ、容易にはできません。

 

それまでの攻撃(全体)を活かした次の一手

ということで、保坂さん自身が書いた「羽生」についてのコラムを発見したので、ちょっと読んでみました→『羽生―21世紀の将棋』

相変わらず、思想性なのか何かわかりませんが、とにかく深すぎて、読み終えるのさえやっとでしたが……(苦笑)要するに、次の一手(攻撃)というのは、それまでの手(全体の攻撃)を活かした一手であることが理想だ――と言ったところでしょうか?

しかし、こう書いたところで、とくに真新しい感じはしません。いや、保坂さんがこんなことを主張するというのは、ちょっと異質なことなのです。

というのは、保坂さんは常々、小説というのは、「全体のストーリーなんて考える必要はない」とか、「思いついたことをただ書き並べていけばいい」とか、いわば「全体」を軽視するような主張を繰り返しているからです。にもかかわらず、「羽生」において全体を重視しろというのはどういうことなのか?

 

藤井四段の将棋は「理詰め」ではない?

おそらく、保坂さんが考える「全体」というのは、たとえば小説でいう、誰がどうしたからコイツはこうしなきゃ、みたいな……いわゆるストーリー展開とかそういうことではなく、その人の魂というか、「無意識の流れ」のようなもののことを言っているのだと思います。

つまり、理屈(頭)ではなく、人知が及ばない感覚(体)の領域で、そこに流れる無意識のぜんぶを活かした次の一手、小説でいえば次の一文を書く――ということなのだと思います。

だからたぶん、というか当然でしょうが、藤井くんに必勝法を尋ねたところで、彼自身さえ、それを頭の中で整理はできないだろうと思います。あくまで、無意識の中にある全体の流れに合わせて、次の一手を打っているだろうからです。いわゆる「理詰めの将棋」とは違うだろうということです。

 

感覚(無意識)を得るには、理屈(意識)を使い尽くす必要がある?

将棋にしろ小説にしろ、自分の中の無意識の流れを捉えられるようになるまでには、そのことへの才能も当然あるでしょうが、何より相当の訓練が必要だと思います。なぜなら、無意識というのは、意識で支配できることをぜんぶやり尽くしたあとで、それ以上のことを支配するために使われるものだからです。

要は、意識で支配できることをやり残しているうちは、無意識に目覚めるというか、それを引き出すことは難しいだろうとぼくは思っていて、だから結局、将棋にしろ、小説にしろ、他の何にしろ、極めるため(意識を超えて無意識の領域で勝負するため)には、とにかく場数をこなすことこそが、何より重要だろうと思います。

 

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