既存の小説を読めば済む小説を書くことの無意味

「メロスの決断」は小説として二流?

前回は思いがけず、10年前に書いた小説を公開したことで、念願の100記事に一気に近づきました。

そう、「とっとと100記事にしたかったから」ではなく、あくまで「思いがけず」です。話の流れから、この小説を公開したほうが良いだろうと、急に思っただけです。それが結果的に記事数を一気に増やしただけなのです(笑)

それはそうと、今回の小説をどう判断するか?は人それぞれでしょうが、ぼく自身は、これはこれでまあアリかな……とは、ギリギリ思えました。

というのは、こういう類の小説というのは、訴えたいことが明確なので、小説としては二流というか、芸術とはまったく違う――と、今のぼくは思っているからです。

小説や芸術というのは、読者に何かを教えたり、気づきを与えるものではありません。じゃあ何を表現するべきか?といえば、自分の中にある無意識の現象を書き出すだけで良いと、今のぼくはそう思っています。いや、このことはまた別の記事に書くとして……

 

既存の小説を読めば済む小説を書くと、読者が混乱する。

先の記事でもお話しした通り、今回の小説は、トルストイの「戦争と平和」における社会思想の一部を拝借して、しかも、ぼくなりの勝手な解釈で形にしただけの、いわばヘタな模造品に過ぎないので、言うまでもなく、時間があるなら「戦争と平和」を読んだほうが100倍良いです。もっといえば、こんな小説はこの世に存在しなくてもいいのです。

って、こんなクソ長い文章を読ませておいて、そんな言い方はねーだろ!と怒られてしまうかもしませんが……(苦笑)しかし、「戦争と平和」に限らず、似たような思想のもとに書かれた小説で、もっと良い小説はいくらでもあるはずです。

だったらそっちを読んだほうがいいということですが、あいにくぼくはそういう小説を「戦争と平和」以外に知らないので、恐れ多くも「戦争と平和」と比較するしかないのですが……要は、「戦争と平和」を読めば済むようなものを、わざわざ書く必要はなかったということです。

だから、たとえば作家志望の人が、既存のある小説に触発されて、自分も同じような小説を書きたいと思っているなら、それは絶対やめたほうがいいと、ぼくは思います。なぜなら、既存のその小説に勝てるはずはないからです。

もっといえば、既存の小説を読めば済むだろうそれ以下の小説が巷に溢れてしまうことは、読者をいたずらに混乱させるだけで、むしろ文化の弊害になってしまい兼ねません。

 

小説を書くなら、いっそ小説を読まないほうがいい?

けっきょく小説家(芸術家)というのは、天才に遠く及ばないことは、あまり問題じゃないだろうとぼくは思います。じゃあ何が問題なのか?というと、自分自身です。

少しでも天才に近づきたいとか、自分もこんなふうに書きたいとか……そういう邪心を打ち消して、とにかく「自分にしか表現できないこと」を、徹底して追及することが一番大事だと思います。

だから、既存の小説にのめり込みすぎるのもよくない気がします。のめり込みすぎると、その小説の視点なり思想に支配されて、自分自身の本当の視点や思想が、余計わからなくなってしまうからです。自分の本当の視点や思想がまるごと打ち消されてしまうくらいなら、いっそ、まったく小説を読まないほうがいいかもしれません。

まあでも、今回の主張とはかなり矛盾しますが、過去に書いた小説をこうしてこのブログで公開するのもアリかな?とは思いました。はい、記事数を稼ぎたいというより、ただの自己満足です……(苦笑)

ということで、気が向いたらまた過去の小説を更新させていただきます。いや、その前にやっぱり変身(変装)をしたいかもしれません……(笑)

 

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