絶望型の暗い小説を書く作家は、読者に説教をしたいだけ。

「真実は綺麗ごとじゃない!」と、読者に説教をしたがる作家

小説というのは、大雑把に分けて3種類あるとぼくは思います。1つは、誰もが共感できる希望や幸福(あるいは笑い)に満ちた小説。2つ目は、目を背けたくなるほどの絶望や不幸に満ちた小説。3つ目は、そのどちらでもない小説です。

で、純文学作家と呼ばれる人の多くは、2つ目の「目を背けたくなるほどの絶望や不幸に満ちた小説」を書きたがります。なぜかというと、「人生の真実は綺麗ごとじゃない!」とか「真実から目をそらすな!」と、読者に説教をしたいからです。

 

ニーチェやドストエフスキーが大好きな作家は、ただの中二病。

しかし、そんなこと(真実)はもう誰だって知っていますよね?ネットでちょこっと検索すれば、究極の真実なんて腐るほど出てきます。いまさら小説家(本)に教えを乞うようなことではないはずです。

ところが、絶望型の小説を書きたがる作家というのは、未だにそのことを自覚していないようです。「絶望を突き抜けた先にある真の希望」とか「深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞいている(ニーチェの言葉)」とか……そういう思想に悪戯に酔いしれている彼らは、ただの中二病にしかぼくには見えません。

で、そういう作家の多くは、30,40歳になっても、ニーチェやドストエフスキーが大好きで、それ以上の世界があることに、いつまで経っても気づかないというか、人間の負の部分(暗い部分)に焦点を向けることこそに、やたら強くプライドを持っている感があります。

 

小説家としての存在意義を守りたい中二病作家たち

小説の種類の話にもどりますが、現代の小説家が書くべきものは、3つ目の「希望でも絶望でもないもの」です。これはその小説家の趣味趣向とかは関係なく、今の時代に小説を書くのであれば、そうでなければならないと、ぼくは思っています。

なぜなら、希望も絶望も、小説以外のあらゆるジャンルがやり尽くしてしまっているからです。いや、それどころか、小説以外のジャンルが、小説以上に希望も絶望も深く掘り下げてしまっているからです。しかし、そんなことはもうみんなわかっているはずなのに、小説家だけがなかなかそれを認めようとしません。書くことがなくなれば、小説家としての存在意義を失うからです。

だから、本当は個人のブログを読めば済むだけのものを、あるいはそれ以下のことを、あるいはそれとは若干モチーフを替えて、「これが自分の思想だ!」とか、如何にも小説にしかできない特殊な深さのように、巧みに装って書いてしまうのです。

これまで、「人間の深さ」とか「人間の真実」とかいう言葉を、独占してきたふうの小説というジャンルにとって、他のジャンルにそれを超えられていることを認めるのは、耐え難いことです。でもこのことこそ、もう何がなんでも、すべての小説家が受け入れなければならない「真実」だと思います。

 

バズを狙うしかない惨めな無名作家=中二病以下

じゃあ、希望でも絶望でもない小説とはどういうものなのか?どう書けばいいのか?というのは、ぼくが書いた小説を読んで参考にしてください→自動記述による文章練習

――はい、メチャクチャ大きく出てしまい、さすがにちょっと後悔しています……(苦笑)ええ、これでもバズらなかったら(アクセスを集められなかったら)しばらく大人しくしようと思います(笑)

 

0
 
スポンサーリンク