現代芸術(小説)は、なぜ意味不明でわからないのか?

よく、芸術を観ても、「何だかわからなかった」「何を言いたいのかわからない」という人がいます。といっても、そのことを否定するつもりはまったくありません。なぜならぼく自身が観ても、何だかよくわからない芸術がたくさんあるからです……(笑)

それどころか、何だかよくわからないそういう芸術に、長年ぼくは否定的でした。単純に、観てもわからない芸術なんて無意味だし、この世に必要ないだろうと思っていたのです。

神や貴族から離れ、身近なものに活路を求めた芸術

そもそも芸術というのは、神や貴族たちのものでした。絵画でたとえれば、宗教画や王の肖像画が多く描かれていた、ダヴィンチやミケランジェロ、ラファエロの時代がまさにそれです。

しかし画家たちはやがて、神や王を描くのをやめて、自分の顔(自画像)や、一般の人々、あるいは何でもない自然の風景や物など、極めて身近なものを描くようになりました。

神や王など、自分には手が届かない存在を描くより、自分自身や自分の身の回りのものを描くことこそ、自分自身の内面を表現できると考えたからです。

と同時に、身近なものを描くことで、一部の権力者だけが独占してきたふうの芸術を、多くの人々に知ってもらおうとしました。芸術はすべての人々に平等に拓かれるべきである――という思想が盛り上がったのも、たぶんこの頃です。代表的な画家はモネやセザンヌといったところでしょうか……。

 

身近なもの(形)をそのまま表現することの限界

しかしやがて、芸術はふたたび行き詰りました。自分自身や身近なものをそのまま描くだけでは、自分自身の内面を、隅々まで表現することができないかもしれない?と考えたのです。

いや、「自分自身や身近なもの」というすでに出来上がっている「形」に、自分自身の内面を投影しようとすると、どうしてもその「形」に捉われてしまい、自分自身の内面がむしろ正確に表現できないのでは?と考えました。

そして画家たちは「形」を捨てることにしました。いわゆる抽象絵画というわけのわからない芸術は、こうして誕生したのです。その先駆者は、カンディンスキーやモンドリアン、ピカソです。

 

「ストーリー」を重視する小説は、二流の域を超えることはできない

小説や音楽も、絵画とほとんど同じ流れで抽象的になっていった――と考えていいでしょう。

ちなみに小説のことでいえば、絵画が捨てた「形」に当てはまるものは、「ストーリー」です。現代の小説は、「ストーリー」という形を捨てることで、自分自身の内面をできるだけ正確に表現しようとしている――ということです。

だからといって、ストーリーを完全になくすことが良いとは言い切れませんが、ストーリーに創作の重点をおく限り、その作品は二流の域を超えることはほぼできないでしょう。

なぜなら、ストーリーに創作の重点をおいた小説は、過去のあらゆる天才が書き尽くして、もうすでに限界を超えているからです。同じやり方でいくら頑張っても、トルストイやドストエフスキーの爪の垢ほどにもなり得ないのは、明らかだと思います。

 

前衛芸術がわからないのは当然。「わかる」という人はウソつき?

神や貴族を描くのをやめて、身近なものを描くようになった近代の画家たちは、変人扱いされたそうです。神や貴族を描くことこそが芸術である――というふうに、当時は考えられていたからです。

同じく、抽象絵画やストーリーを無視した小説も、未だ変モノ扱いされています。しかし、芸術の歴史の流れに沿うと、そうせざるを得ないからそうしているだけで、前衛芸術家の多くは、変人を演じようとしたり、わけがわからない作品をわざとつくっているのではありません。

ただ、前衛芸術のほとんどが、形がなかったり形を崩したりしているため、一見わけがわからないことは確かで、だからといって、それを無理にわかろうとする必要はまったくありません。というか、そういう芸術というのは、「頭」ではなく、「体(感覚)」で体験するものなので、そもそも「わかる」ことはできません。「わかる」という人はウソつきです。

なにも考えず、ただじっと、見ていられるか、読んでいられるか、聴いていられるか――ということだけが、重要なのです。そのため、その芸術について感想を口にすることさえ、基本的には誰にもできないのです。

唯一なにかをいえるとしたら、「その小説を何回読んだか?」「その小説のあるシーンを何回思い出したか?」とか、要は「回数」だけです。

 

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