小説家(芸術家)は、目指すものではなく、勝手に「なる」もの。

ここ最近、なかなかブログを書く気になれません。少しずつアクセスが増えているとはいえ、実際の収益にはまったくなっていないことも確かにありますが……(苦笑)

それとは別に、小説サイトで書いているような、無意味でラリった感じの文章を書き続けていると、意味のある(何かしら役に立つ)&最低限辻褄を合わせなければならないブログ記事のような文章を書くことが、ちょっとしんどくなってくるのです。

意味がある(役に立つ)文章や考え方というのは、一見価値があるように思えますが、読み手が「納得(理解)できる)」或いは「明確に否定できる」ことのどっちかにしか過ぎない、要は「人間の意見や考えを固定化してしまう」つまらない代物なのです。

さらに、固定化してしまうことによって、本来言うべきことがむしろ正確に伝えられないということも往々にしてあります。

たとえばぼくは、働くことを批判する文章をたくさん書いちゃっていますが、だからといって働いている人たち自身を批判したくはないというか、そういうことではないだろうと、感情論ぬきで思っていて、しかし、そのことをこのブログではまだ上手く書き切れていないと感じているのですが……

働きたくない「ぼく」が思う、働く意味とは?

結局、あらゆる結論というのは、その反対や、それまでの過程も含めたすべての意見や考え方を内に宿していて、書きはじめの口調や切り口、或いはそれについての質問のされ方等が違えば、結論(返答)の形もそれに応じて逐一変わるので、意味がある&内容が伴った文章といっても、読み方次第でどうにでも取られ得るし、だから書き手としてもどう解釈してもらっても構わないとしか、最終的には思いようがないのです。

つまり、普通に書くブログ記事といっても、ラリって書く文章と実はそれほど変わらないのかな?という感じでもあるくせに、表向きは、意味や内容をキチンと整理しなければならないので、「なかなか面倒くさい」ということでもあります(苦笑)

 

――と、何だかゴチャゴチャ書きすぎて、書いている自分でもよくわからなくなってきましたが……(笑)とにかくぼくは、これまでにない何か新しい思想や考え方をもっているというわけでは決してありません。

もともとある既存の思想や考え方を、理屈だけでなく、体感的にもわかってきたから、じゃあそれをどうわかったのか?とか、具体的にそれをどう実践しているのか?みたいなことを、自分なりに説明しているだけなのです。

「働かざるもの食うべからず」→「だったら食いません」のほうが楽じゃない?

そう、ぼくは別に、特別価値のあることを書いているわけではありません。というか、そもそも特別価値があるような評価を誰かに頂いているわけでもないのに、あえてこんなことをぼくが書くのは、ぼくの主張や考え方を、特別価値があるように勘違いする人たちが実はけっこういるんじゃないか?と……

いわば、3回程度目が合った異性に対して、やっぱりアイツ自分のことを好きなんじゃないか?と、超都合よく解釈してしまうのと同じく、ぼく自身の身勝手な憶測が暴れ回っているだけなので、とくにそう思っているわけでもない(ぼくの主張や考えを特別価値があるとは思っていない)人は、どうか気になさらずというか、このぼくの心の茶番劇を、苦笑いつつ楽しんでくれれば幸いです……。

 

――はい、またいっそうゴチャゴチャしてきましたね……(苦笑)まあでも、こういう意味のない茶番もまた楽しいはずだろう?というのは、あくまでぼくの主観というか、とにかく、書いている本人が楽しければそれで良いかな?と、究極的にはそう思います。

小説家が小説を書くのは、読者のためではなく、自分のためである。

少なくとも、小説や芸術というのは、その作り手自身(人間)がより良く生きるための手段でしかないということを、最近ようやく体感的にもわかってきた感じがします。だから小説(芸術)の完成度に拘るのが、最近本当にバカらしくなってきました。もしかしたら小説(芸術)というのは、誰かに読ませる(鑑賞させる)ものではないのかもしれません。

そもそも小説家(芸術家)というのは、そうでない人たちに、何かを教えたり、人生への気づきを与えたり、或いはそういうことに付随する何らかの手助けをするようなことも一切しないし、する気もないし、そもそもそんな能力なんか持ち合わせていないし、そもそも基本的に人様のことはそっちのけで、自分のことしか考えない超絶ワガママな生き物なのです。

にもかかわらず、ある一定以上の芸術家に、ある一定数の人たちが熱狂するのは、その芸術家のワガママが、極めて本物(自然体)だからなのだろうとぼくは思います。そしてそれ(極めて本物のワガママ)というのは、目指すものではなく、勝手に「なる」ものなので、その人が本当の芸術家であれば、芸術のために何を努力する必要もないのです。

はい、ぼくはこれまでの人生で、努力らしい努力は何一つしていません。自動的にこうなってしまっただけです。こうなってしまわないように、もしも「努力(社会に追従)」をしてしまっていたら、ぼくはとっくにガンになって死んでいたことでしょう……。

 

0
 
スポンサーリンク