「昔の友人とは話が合わない」のではなく、お互いまだ若い(子供な)だけ。

青森に帰ってきて約1年が経ったここ最近になって、少しずつ昔の友人に連絡をとったり、店をやっている友人のところには抜き打ちで顔を出して、向こうが超ビックリするのを楽しんだりしているのですが……(笑)

かれこれ10年以上会っていなかったことに加えて、普通とは違いすぎる生活(無職&自称芸術家&断食を主とした人体実験中)と、極端すぎる価値観(新築の家に住み、車を持ち、シャンプーリンス石鹸歯磨き粉を使っている連中こそ実は負け組)で凝り固まってしまっているぼくと友人たちとの間には、当然ですがかなり大きな隔たりを感じてしまいます……(苦笑)

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とはいえ、多感な時期を共に過ごした同士というのは、ある種の特別な感情をお互いに捨てきることがやっぱりできなくて、現状の生活や価値観がそれぞれ違っても、なんとかどこかで繋がっていられる感覚なり距離感を探り合うのですが、そうして上手くいくこともあれば、もう少し時間が必要だと感じることもあって……

ちなみに先日会ったKとの関係についていえば、もう少し必要な時間は、最低でもあと10年、ヘタすると20年以上かもしれない……とまで思ってしまいました(苦笑)

つまりKとはそれだけ大きな隔たりを感じてしまったということですが……だからといって、少なくともぼくのほうからは完全にKと縁を切る感じにはなれないと、実際にKと立ち話をしながらそうはっきり思いました。

竹馬の友とか、同じ釜の飯を食ったからとか、単純にそういうこと以上に、K自身の性格や、Kとの思い出の一つ一つが、ぼく自身の基本的な感情や郷愁の琴線に、かなり強く触れるからだろうと思います。

で、10年前のぼくは、その気持ちを無理やりというか、非情なやり方で抑え込むことを良しとし、そんな冷酷な自分に、むしろちょっぴり酔ったりもしていましたが……(笑)

もちろんそんな幼稚な感情遊びはすでにしていないとはいえ、もうあと10年以上の距離(時間)が必要だと感じてしまったぼくが、実際にもうあと10年以上の距離(時間)を、Kの意思に関係なく無理やり取ろうとするだろうことを思えば、自分の都合ばかりを優先してKに会いに行ってしまった今回のことのほうが、よっぽど「非情な行為」だったというふうにも言えるかもしれません。

少し前に、同窓会の出席率を年代別に集計したコラムを読んで、年齢が上がるほど出席率も上がることを知りました。要するに歳をとればとるほど、それぞれの個性や価値観なんてどうでも良くなって、生や死についての観念みたいなものに、すべての人たちが統一されてしまう、ということだろうと想像しますが……

だとすればぼくとKは、そこまで生きて、ようやくごく自然に良い感じの距離感をもてる仲になれるのかもしれないと、そんなことを少し思いました。

で、それはそれでしょうがないというか、それはむしろ長生きすることの一つの楽しみかもしれない気がした……という、なんとも初老的で、思想が一気に老け込んでしまったような、ちょっと嫌な気持ちにもなった――というお話でした。おしまい。

「人は何のために生きるのか?」を問うのが、そもそも間違い?

 

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