無名作家歴20年のぼくが、毎日小説を書き続けられる理由とは?

スランプに陥っても、下手なりに手を出し続ける!

今年の誕生日で、ぼくもとうとう40歳になります。19歳のときに散文のようなものを書きはじめてから、途中3年ほど演劇をやっていた時期もありますが、その当時も、下手くそな戯曲をはじめ(苦笑)小説もどきの散文なんかも書いていたので、もうかれこれ21年間、ずっーと毎日書き続けています。

もちろん、風邪をひいたり、引越しや旅行とか、バイトで疲れ過ぎて書けないことはあったし、これからもそういうことは普通にあるでしょう。また、最近のことでいえば、「ワードプレスとは何か?」「ドメインとは何か?」みたいなことを数日かけて問い続けたり……と、どうしても小説を書けない日が続くこともあります。

しかし、いわゆるスランプに陥って、何週間や何カ月も書けなくなった――ということは、これまでに一度もないし、これからもたぶんそうはならないと思います。スランプに陥ったらそうなったで、スランプのまま強引に書き進めるからです。

スランプとはいわば「壁」のことですが、壁を黙って見つめるだけでは、その壁を乗り越えることや壊すことは一生できません。下手くそな方法でも攻撃でもなんでも、とにかく手を出すべきです――

という、たとえばこんな感じの精神論に頼ることなく、ぼくの場合は生理的にそうすることができるタイプの人間らしく、つまり、そういう人間でなければ、結局は書き続けることはできないんじゃないか?とぼくは思います。

 

「小説を毎日書くこと」は生理現象で、信念や努力ではない。

そうはいっても、多少は精神論に頼るというか、「今日は最低でも二枚は書くぞ!」とか、自らを鼓舞することも完全にないわけではもちろんありませんが、しかし、小説を書くとか芸術をつくるという行為は、そもそもその人の生理的欲求から端を発しているのであって、義務なんかでは当然ないし、もっといえば、「信念」や「努力」なんかも、基本的には必要ないはずです。

他にもたとえば、「得体の知れない何モノかに突き動かされている」みたいなことも、少なくともぼく自身にはまったくありません。そういうことや、信念や努力で書いているわけではないのです。

じゃあ何かといえば、ただの生理現象です。お腹がすいたからご飯をたべる、眠くなったから寝る、というのとまったく同じ理屈です。だから、毎日書けないような環境がもしも続いてしまったら、ぼくは本当に死んでしまうかもしれません。

実際ぼくは、売れもしない小説を書き続けるために、端から就職をせず、風呂なしアパートに住み、アルバイトもやめて、自己破産をして、親兄弟親戚その他にまで金の無心の範囲を広げ、社会的信用のほぼぜんぶを失ってきましたが、もちろんそうしないにこしたことはなかったわけで……要は、芸術的資質云々はさておき、そこまでせざるを得ないほど、「書く」という生理的要求に、ぼく自身は支配されてしまっているのです。

 

小説は永遠に完成しない!?

そんなぼくにとって、「書けない」という悩みを抱える多くの作家志望、あるいはプロの作家の方々に、「言うべき何か?」は正直ほとんどありません。

――などと、無名のくせに何を偉そうに!と思われるかもしれませんが、ぼく自身はいわゆるプロ作家の方々以上に、毎日自由かつ好き勝手に書き続けているという自負をもってしまっているというか……(笑)要は、「小説家として食べていけるだけのお金を小説で稼げている」という事実のほとんどは、芸術の自由を犠牲にした上で成立してしまっているようにしか、ぼくには見えないのです。

ともあれ、有名無名アマチュア関係なく、小説家にとって「書く」という行為は、「毒を出す」ことだとぼくは思っています。というのは、二年くらい前にぼく自身が書いた小説を最近チラッと読んでみたのですが、思わず吐きそうになって……つまりそれは猛毒だった(超ダメなものだった)ということです(苦笑)

そういう毒というのは、実際に吐きださないと(書きださないと)わからないものです。しかも、書きだしてから、それを毒と認識できるまでにも、ある程度の時間が必要です。さらにいえば、毒の層というのは本当に分厚くて、掘っても掘っても(書いても書いても)、そのもっともっと一番奥にあるはずの綺麗なもの?は、そう簡単には出てきてくれません。

そしてきっと、そのもっともっと一番奥にあるはずの綺麗なものこそが、その人が小説を書く本当の動機に裏打ちされた、その人が本当に書くべきものじゃないか?と思う一方で、そこに辿り着いてからも、さらなる純度を求められたり、もしくはそれが本当に書くべきものではまだなかったとか……つまり、小説や芸術は永遠に終わらないのだろうとも思います。

といっても、毎日書き続けていれば、ある程度の毒は出し切れるはずで、もちろん完全ではないにしても、自分の本当の表現をそれで獲得できるかもしれないことを思えば、誰もがせめてそこまでは到達したいところでしょう。

しかし、毎日書けないという人は、それだけ毒を出すペースが遅くなってしまうので、或いは一生かかっても、自身の本当の表現には辿り着けないかもしれません。要は、その人の奥にある綺麗なものが出されるまえに、その人が死んでしまうわけです。それはとても勿体ないことです。

綺麗で純粋なものが心底にあるからこそ、なにかを書きたいとか表現したいと思うわけで、それを出せないで死ぬということは、その人自身はもちろんですが、世界にとってもマイナスだろうとぼくは思います。というわけで、毎日書けないという人には、大袈裟でなく、世界への責任が自分にもあると自覚してもらって、頑張って毒を出し切りましょう!とか……まあ、こんなことしかぼくには言えないようです(苦笑)

 

ストーリーやキャラの設定より、自分の文体の獲得を優先する

というかそもそも、ストーリーや登場人物のキャラをどうしようとか……そういうことに労力を使いすぎているから、毎日書くことができないというのがほとんどだろうと思います。ストーリーやキャラ設定なんて、今や(現代小説)もうどうでも良いのです。むしろストーリー云々の枠をつくってしまうと、表現の自由度が制限されてしまいます。

そもそも、あらゆるストーリーはすでに出尽くしていて、いくら頑張ってストーリーを考えても、既存の作品と似かよってしまいます。だったら、ストーリーで勝負するのはやめて、自分なりの文体で勝負したほうが良いでしょう。

文体というのは文章力のことではなく、その人の肉体とか感覚に合った文章のリズムのことです。とにかくまずはこの文体を獲得しないと、いくら表面的に面白くても「中身がない」と一蹴されてしまうでしょう。逆にいえば、自分なりの文体さえ獲得してしまえば、特別面白いことを書かなくてもそれなりの形になるはずだと、ぼく自身はそう思っています。

小説においては、文体こそが、その人独自の感性を表現するのに、もっとも相応しいものだと思います。ストーリーとか人物をどうしようとか、そんなことは二の次にして、とにかく書く。書いて書きまくって、自分なりの文体を獲得する。そのためにも、とくに小説を書きはじめたばかりの時は、質よりも量を優先すべきだと、個人的には強く思います。

――と、無名のくせに偉そうなことをベラベラしゃべってしまいましたが、ぼく自身もまだ自分なりの文体を完全に獲得できているわけではないので、同じ志をもつ作家志望の方々と一緒に、しっかり自分の文体を獲得できるよう、精進していきたいと思います。

 

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