無名作家の貧困レベルとは?

お金がない、というのは誰にとっても深刻な問題ですが、たとえばぼくのように、まもなく40歳の誕生日を迎えるいい大人のくせに、6歳の姪っ子にもらったバレンタインのお返しさえ困難なレベルの貧困にあえぐ人間というのは、日本中探しても、そうそういないんじゃないか?と思います。

はい、無名作家の貧困は年季が違います。まったく自慢になりませんが、自己破産もとっくのむかしに経験済みです。で、このレベルの貧困が長年にわたって続くと、心が病むどころか、人格も歪んでしまって、誰にも会いたくなくなります。

お金がないと、誰にも会えない。会っても疲れる。

もとより、誰かに会ってお茶をするお金さえそもそもないのですが、たとえば心優しい友人が、お茶代なり飲み代を負担してくれるにしても、心が病んでいるので、素直にその場を楽しむことができません。

必要最低限のお金がなければ、どんなに気の合う友人と一緒にいても、「今月の水道代どうしよう…」とか「姪っ子へのお返しを税込500円以内で抑えたい」みたいなことが、逐一頭に浮かんでしまって、その場を楽しもうと、どんなに心を切り替えようとしても、どうしても無理なのです。

というより、「一人分多く払うお茶代があるならその分の現金をくれよ」なんて気持ちになってしまう自分自身に、むしろよけい疲れてしまうのです。

だからぼくは、もう何年も友人や知人に会っていませんでした。そんな気持ちになってしまうくらいなら、家で黙って小説を書いていたほうがマシだと思ったからです。

 

お金の問題はお金じゃないと解決できない。

お金というものは、人に貸したりあげたりするものではなく、自分で稼ぐものです。お金のやりとりは、人間同士の仲を裂き、ときに傷つけ、殺してしまうこともあります。だからお金のやりとりには、みんな神経質になります。

そもそも友人同士でお金のやりとりなんかするもんじゃない、ロクなことにならない――と、お金のやりとりをすることは、「不道徳で倫理に反するもの」として扱われています。

しかし、必要最低限のお金がない人間は、倫理や道徳に構っている余裕はありません。お金のために病んだ心を治してくれるのは、お金でしかないのです。お金の問題はお金でしか解決できないのです。

そうはいっても、友人にお金の無心をすることは、相当のエネルギーを必要とします。お金の無心をされた友人にしてもしかり、ともに疲労困憊になります。

 

「パンか?」「聖書か?」の究極の選択

で、お金の無心をあきらめたその人(ぼく)は、友人の前から忽然といなくなります。電話をしてもでない。メールをしても返信しない。その友人のことを嫌いになったからではありません。お金がなさすぎて、疲れきって、声をふり絞る気力もなくなるからです。

「パン」か?「聖書」か?みたいなことが、ドストエフスキーの小説で語られていたと思いますが、この流れでいえば、「パン」だと言わざるを得ないですね。しかし、芸術家と呼ばれる人たちは、聖書のほうを信じるのが普通です。だからぼくも聖書のほうを信じています。

というわけで、先週、五年ぶりにある友人に会ったのですが、やっぱり疲れてしまいました。ええ、その友人には申し訳ないですが、疲労困憊です。

とはいえ、久しぶりに楽しい時間をすごせて、和やかな気持ちになれたというか、かなり気持ちがスッキリしました。その友人もいろいろあったみたいですが、とりあえず元気そうでよかったと、心の底からそう思いました。

って、人間の心はよくわからないですね……

 

お金は自分で稼ぐしかない(当然すぎる結論)

ともあれ、最低限のお金はやっぱり必要です。人間はさまざまな状況の変化にも柔軟に適応できる能力があるされていますが、最低限のお金がないことには、絶対に適応できません。そのうえで、お金はやっぱり自分で稼ぐしかありません。ただでお金をくれたり、無制限にお金を貸してくれるような人なんか、いやしないのです。

ええ、当然すぎるこの結論に、ぼくは最近になってようやく気づきました。やっぱり何十年も無名作家でいると、ちょっと頭がおかしくなってしまうようです(苦笑)

とにかく一日もはやく、最低限のお金を稼げるよう、小説だけじゃなくブログのほうも頑張って、気兼ねなく、友人や知人たちと素直な気持ちで会える環境をつくりたいと思います。

 

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